どうして椅子に立て膝で、この手のポーズか。
酔っぱらいのおっさんにしか見えません。
「政治家なんてな、みんな頭カボチャやねん。スッカスカや。
いっぺん俺に総理やらせてみ、世の中変えたるよ!
今こんな格好してるけど、本気出したらこんなもんちゃうよ」
とか言うてます、多分。
ブログシステムを最新版にアップデートしたついでに、
デザインもちょっとリニューアル。
(前のデザインが新システムで使えなくなったから・・・)
んで、サーバーもこっそり引っ越したりしております。
だいたいこんな風に表示されているはずなんですが。↓
タイトル部分の画像は、ランダムでいくつか出るので、
上のと同じじゃない場合があると思います。
あと、ブラウザの幅に合わせて表示も変わるため、
サイドバーが下に来ることも。
(その場合はブラウザの幅を広げてみて下さいまし)
また、試験的に新しいコメントシステムを導入。
Twitter等のアカウントでもコメントいただけます。
なにか不具合等ございましたらコメントでお知らせ下さいませ。
よろぴく。
8月は2回の原爆の日、終戦記念日、お盆があり、
人の命や、平和について想う機会の多い月です。
今年は震災もあり、原発の事故もあって、
より切実な気持ちをもって、この日を迎えました。
この間、『ハーバード白熱教室講義録』という本を読んだ時、
「自分が電車の運転手だとして、一方の線路を行くと6人が死に、
もう一方の線路を行くと1人が死ぬ。どちらを選ぶか?」
という問題があって、すごく悩み、結論が出ませんでした。
もちろん事故などの際、被害に遭う人数は、多いよりも
少ない方がいい。けれど、
「人数が少ないなら、その人たちが被害に遭っても構わない」
という風には、どうしても思えず・・・。
私には原発のことはよくわかりません。
どういう仕組みなのかも、本当にそれが必要なのかも。
私に分かることは、原発事故で家に帰れない人が居て、
ずっとずっと、長い長い間続けて来た農業や酪農が
出来なくなった人が居て・・・という誰でもが知っていること。
電力は大事、なるほど。でも人の命や生活よりも?
なんだか、国益や大義名分のために戦争しよう、
その為なら「多少の犠牲」はやむを得ない・・・そういうのと、
すごく似ている気がするのです。
名探偵ポワロの『愛国殺人』で、犯人は
「私は国の平和と安全に必要な人間だから」
という理由で、殺人を正当化しようとします。
ポワロはこう返しました。
「そこが、あなたと私の考え方の違う点です。
私には、殺された人の命は、あなたの命と同じ程大切なのです。
人間に、小物など存在しないのです。
私の関心は国家ではありません。
私が関心を持つのは、自分の命を他人に奪われない、
そういう権利を持つ、個々の人間です」
私もポワロと同じ気持ちです。
人数が多くても少なくても、「偉い人」でもそうでなくても、
個々の命や人生の尊さは変わらないはずです。
ましてや、命も形もないものと、同じ秤に載せるべきもの
ではないはずです。
戦争も原爆投下も、原発事故も、2度と起こらないことを
心から願っています。
誰もが自分の命と人生を、当たり前に大事にできるように。
勝手に誰かに、自分の命を天秤にかけられたりしないように・・・。
レナの妹のダンカは、おっとりしすぎていて、
私なんかは読んでてイライラしちゃうことがある(笑)。
「この妹が居なけりゃ、レナは一人で楽なのに・・・」
意地悪な私はそう思っていたのだが、一方で、
ダンカが居たからこそ、生き残れたのだも思う。
レナは基本的には、一人で何でもやれるタイプだが、
守ってやらねばならない弱い存在が居たから、
余計に強く、慎重にこなした面もあったと思う。
人は、他の人のためにより強くなることがある。
レナは家族がきっと生きていると固く信じているけれど、
目の前に、現実として生きてそこに居てくれる妹は、
家族思いのレナにとって、どんなに支えになったろう。
レナみたいに聡明で強い人でも、希望をなくして
「自分一人で生き残ってもしょうがない」
というような気分になったら、そこで終わりだ。
また、一人だったら、
「一緒に、ここから逃げないか」
というロマンチックな言葉を掛けられたとき、
退けることは難しかったかも知れない。
レナの約束も、その約束をさせたダンカの存在も、
どちらも生き残るのに欠かせない存在だった。
二人が共に生き残ったことが嬉しい。
ダンカの主観は語られないけれど、最後の方で、
雷が怖くてたまらなかった彼女が、
「雷を私に落として下さいって祈っていたの。
もうこれ以上、お腹を空かせずに済むように」
と言うところで、わんわん泣いた。
ダンカは守ってやる存在がいない分、
余計つらかったかも知れないと、少し思う。
悲惨な出来事は、例え何十年経っても、語るのは辛い。
レナが収容所で見せた勇気よりきっとさらに大きな
勇気を持って、この本を残してくれたことに感謝したい。
それと同時に、語られなかった多くの物語が、
きっと沢山存在するということに、胸が痛む。
かなりおこがましいが、レナと私に似ている所がある、
と思った部分を、少しだけ。
まず、女性の身体に関すること。
収容所に入ってすぐ、周りの女性の生理が止まるのに、
レナだけが止まらない。
これ、私にも経験がある。
もちろん収容所ほどの過酷な環境ではないが、
新聞奨学生の寮は、特にトイレとシャワー室がかなり不潔で、
男子と兼用という、10代の女子には、きついものだった。
私以外の子の、生理が止まった。
私だけ神経が太いようで、何か劣っているような気もしたし、
出血しながら重労働をするのは身体的にもキツい。
当時は生理痛もきつく1週間ほど出血が続いていたので、
収容所でどれほど辛かったか、普通の人より想像がつく。
あと、レナの体験に比べたら屁のようなことだけど、
私は子ども虐待の生き残りだ。
だから、人がどこまでも残虐になれるということを、
知っているし、そういう時、人がどんな風に感じ、思うのか、
少しくらいは分かる。
ユダヤ人を使って残酷な人体実験をしていたメンゲレという人は
容姿の美しい人だったと聞く。
虐待をしていた母は、私が言うのもなんだが、美人だった。
人は、美しいものの中にある醜いものを、信じたがらない。
でも、容れ物の美醜は、中身のそれに何ら関係がないことを、
私は痛いほど知っている。
「私たちはメンゲレの美しい仮面に惑わされない」
「私は心に決めた。生き延びるためには何でもする、と」
「心に浮かぶものは無意識の奥深くに封じ込める。
そこなら安全なまま、傷つけられない」
「ドイツ兵に、私たちが参っていると思わせたくない」
「彼女は虐待するのに飽きないのだろうか。飽きないのだ」
これらは、私が小学生の時思ったことと、全く同じだ。
同じことを思ってもこんなに違いがあるとは、と、
恥ずかしい限りだが、ほんの少しでもこんな素敵な人と
類似点があるのは、嬉しい気持ちになる。
いつかレナみたいな、優しく強い人になれますように。
ドイツ兵たちは、様々な酷いことをしてくる。
でも、彼らの全てが「敵」かというとそうではなく、
出来る範囲で親切にしてくれる人も居る。
同じ辛酸をなめるユダヤ人だから全員「味方」かというと、
それもそうじゃなく、とんでもなく狡い人が居る。
悪気はなく命が掛かっている場面でヘマをする人や、
両親がどこかで無事でいると信じようとしているレナに、
「あなたの両親がひどく残酷な殺され方をしてるの見たわ」
と言ってくる、何がしたいのか分からない人も居たりする。
「味方」の中の「敵」の方が、始末が悪いことがあるなぁ、
と読んでいて何度も思った。
レナの偉い所は「ドイツ兵だから」という理由で、
みんな一緒くたに憎んだりせず、個人個人をきちんと
冷静に公平に見ているところ。
そして彼らが「したこと」だけを憎んでいる所だ。
「私はドイツ兵を好きではない。
彼らが私たちにしたことを憎んでいる。
憎んではいるけれど、私たちによくしてくれた人々が
どうして死なねばならないのか、どうしても理解できない」
と、レナは言う。
一番始末の悪い「敵」は、自分の中に居ると思う。
死ぬまで憎み続けて、復讐の炎を燃やすことも出来る。
でもそれは、ずっと「敵」を自分の心の生に住まわせて、
一生一緒に居るということだ。
酷いことをされて憎しみの感情を持つのは自然なことだ。
だが、いつか手放さないと、それに一生を食いつぶされる。
それは、この時代にユダヤ人が体験したほどの大きな
ことでなくとも、私のように虐待を受けたり、
いじめや意地悪で嫌な思いをしたりというような、
現代で身近に起こる様々なことに当てはまる。
レナは気品と優しさをもって、切り抜けた。
深い闇を抱きながら、その闇に食いつぶされず、
一人の女性として幸せに生きてきた事が、素晴らしい。
幸せに生きる決意をすることは、辛い体験をした者には
難しいが、それ故に尊いし、それだけが唯一、
「敵」を消滅させる手立てなのではないだろうか。
一生は一度しかない。幸せに生きよう。
そう、決意しよう。